K RETURN OF KINGS After Stories

著 あざの耕平
 窓から差し込む陽光が、その傾きを大きくしていた。
 バー『HOMRA』の一階。カウンターの奥でグラスを拭いていた草薙出雲は、床を長く照らす陽射しに気づいて、ちらりと時計に視線を向けた。
 客がまだいない午後の時間は、心地よくゆったりと流れる。ただ一方で、ふと意識したときには、驚くほどたくさん、溶けるように消えているのだ。その日も、漠然と思っていたより長い時間が経っていた。
 草薙はグラスを棚に戻すと、冷蔵庫を開けて中を確認する。店ではアルコール以外にも簡単な料理を提供していた。夜に備え、いまから下拵えを済ませておくのである。
 食材を取り出し、「さて」とつぶやく。
 それから、
「……ん? そういや」
 思い出してカレンダーを確認。今日の日付に、青いハートマークが書かれていた。
草薙はもう一度冷蔵庫の前に戻ると、冷凍室からあんこを取り出して自然解凍を始めた。
 バーにあんことは似つかわしくないが、これは「特定の客」のために用意している物だった。なるべく欠かさないよう気を付けていたのだが、何しろ不定期に訪れる客だけに、来店時、買い置きが切れていたことが何度か重なったことがあったのだ。
すると、「彼女」はそれ以来、来店前に連絡するようになったのである。
「おかげでレパートリーも増えてもうたわ」
 わざわざ『HOMRA』を訪れる理由のひとつは、間違いなく、このあんこなのだろう。
なんだかんだで草薙も毎回――不本意ではありつつも――趣向を凝らすものだから、向こうもそれを楽しみにしているようだった。その心情自体は、バーのマスターとしておおいに本意ではあるのだが。
「あんこマティーニも、そこそこ飲めるレシピ、できたしな。……まあ、世理ちゃんの好みだと、どうしたってあんこ多すぎやけど」
 カクテルの世界も、なかなかどうして奥深い。実は、今度は抹茶を使ったカクテルなども考案しているところだ。来店客の意表を突くレシピとして、そろそろメニューに載せてもいいかもしれない。
 ……と。
「うん?」
 タンマツに着信があった。見れば、まさにその「彼女」、淡島からだった。おや、と電話に出てみると、淡島の、いかにも申し訳なさそうな声が『ごめんなさい』と聞こえてきた。
 突然の仕事で、今日来られなくなったと言う。草薙は、なんや、と笑った。
「かまへん、かまへん。気にせんとき」
『それが、気にしないわけにはいかないのよ』
「ハハ。そんな気ぃ使われたら、くすぐったなるな。どないしたん?」
『実は……』
「ん?」
『うっかり予定を口にしたら……』
「うん?」
『せっかくだから、代わりに行く……と』
「……んんん?」
 そのとき、チャイムが鳴った。
 草薙は反射的に顔を上げ、
「あ、いらっしゃ――」
 語尾が、間が抜けた響きで、宙に消える。宗像礼司は微かに微笑むと、「どうも」と声をかけた。

     *

「……どういう風の吹き回しですん?」
「おや? そんなにおかしいですか?」
「いや、だって……ねえ?」
「フフ。そう身構えないで下さい。深い意味はありませんよ」
 と、宗像は平然と言った。
 その口元には、火の付いた煙草がくわえられている。彼が吸うところを見るのは、これで二度目だ。
「久しぶりに様子をうかがいたくなっただけです。早い時間なら、他の方々も少ないでしょうしね」
「……まあ、他の連中がおったら、少々、荒れるかもしれませんねえ……」
「いまはプライベートで来ているのですが、そうした辺りの機微は、通用しませんか?」
「無理ですね」
「なるほど。まあ、予想通りです」
「てことはつまり、嫌がらせですか?」
「心外ですね」
 そう、宗像は笑う。その笑顔は心底楽しげで、草薙はげっそりした。
 とはいえ……。
 宗像がくゆらせる紫煙を見る限り、あながち冗談でもないのだろう。機微、と言われても気の利いた返しは難しいが。
 そして、沈黙する草薙の前で、宗像はグラスを傾け、ゆったりと煙草を吸う。
 ぽ、と吐き出して、草薙に目をやった。
「最近、どうですか?」
「あー、まー、ぼちぼちですわー」
「《赤の王》はこちらにお住まいでしたよね? 今日は?」
「あー、まー、ちょうど外にー」
「それは残念」
「会うてどないしますん?」
「この前の礼をね。言いたかったのですよ」
「礼?」
「ええ。いまにして思うほど、貴重なアドバイスでした」
「ああ……。緑んときの……」
 草薙が言うと、宗像は淡い自嘲を浮かべてグラスに口を付けた。そんな風な宗像は新鮮だ。
淡い自嘲。らしくない。が、案外と似合わなくもない。草薙は胸中で、へえ、と面白がった。 「意外ですね」
「そうですか?」
「失礼ですけど、唯我独尊やと思てましたんで」
「これはまた――手厳しいですね」
「でしたね。すんません」
 仮にも、客だ。草薙は率直に謝罪して頭を下げる。もっとも、その表情に反省の色は薄かったらしい。宗像は苦笑を過ぎらせた。
 もう一度、グラスを呷る。
 バーボンだ。その銘柄を選んだことにも、あるいは、と思う。確かに、近頃はなんだかんだと落ち着いている。むろん、忙しない日々ではあるが、ここ数年の激動を思えば、心情的には平穏だ。様々なことがひと段落して、草薙にしても、少し昔を振り返りたくなる頃合いだった。
 歳を取ったのかもしれない。
 が、心が歳を取るのに、十分な数年間だった。
「……やはり」
「はい?」
「少しばかり、寂しくなりました……か」
 宗像の台詞に、草薙は無言のまま片方の眉を持ち上げる。
「おかしなものです。あれだけ気にくわなかったと言うのに」
「ハハ。そないですか?」
「もちろんです。おそらくは、あなたが想像している以上ですよ? 特に、最初は」
「……なるほど……」
 草薙は言葉少なく返して、視線は手元に落としたまま下拵えの手を進める。だが、「おかしなもの」という宗像の台詞には、大いに同意していた。
まさか自分が、《青の王》とこんな風に語り合うようになるなどと、以前の自分なら想像だにしなかった。
 しかし――
 考えてみれば、自分と宗像は、「残った」同志でもあるのだ。同じ時間を共有し、同じように見送った仲なのである。
 その立場こそ、正反対ではあれ……。
 クス、と草薙はわずかに微笑む。
 そして、下拵えの手を止め、
「……失礼」
 と断ってから、自らも煙草を取り出し、火を付けた。宗像は鷹揚に、草薙が煙草を吸うのを見守った。
 草薙は、のんびりと煙草をくゆらせる。カウンターを挟み、店内に二条の紫煙がたゆたった。
 寂しくなった。確かに、その感慨は否定できない。あるいは、そうした感慨を一番強く抱いているのは、ここにいる二人なのかもしれない。
 煙草を吹かした草薙は、おもむろにグラスに手を伸ばした。カラン、とロックを放り込む。
宗像と同じ――そして、旧友と同じ――銘柄のバーボンを注ぎ、軽く手を掲げてみせた。
「ま。せっかくやし。乾杯しときましょか」
「おや。よろしいので?」
「たまにはね」
 ぱち、と片目をつむった。
 残った者たちには、残った者にしかわからない苦労があり、寂しさがあり、また、やり甲斐がある。未来を見つめ、進む楽しみが。草薙と宗像はおそらく、その楽しみを共有しているはずだった。その立場こそ、違えども……。
 宗像はしばし無言で草薙を見つめた。
 それから、もう一度淡く微笑みつつ、おもむろに自身のグラスを掲げた。
「では、お言葉に甘えて。……そうですね。いまは亡き者たちに、と言ったところでしょうか」
「ま、どうせあいつらも、向こうでよろしうやってるでしょう」
「そう思いますか?」
「はい。まあ、間違いなく」
「なるほど」
 宗像はおかしそうに笑い、草薙とグラスを合わせた。カウンターで澄んだ音が弾け、それぞれのグラスの中で、バーボンに浮かぶ氷が回る。
 ふと、誰かと誰かの笑い声が聞こえた気がした。
「……ところで」
 草薙はバーボンに口を付けつつ、ニヤリとして確認する。
「宗像さん……今日は副長さんの代わりに来はったんですよね?」
「そうですが、何か?」
「いえいえ、それならね。せっかくやから」
 と答えつつ、草薙はあんこの入ったタッパへと手を伸ばした。

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