K RETURN OF KINGS After Stories

著 高橋弥七郎
ドレスデン石盤が破壊された瞬間、
それまで立っていた舞台を打ち壊されたような、不安を伴う浮遊感が生じ、
己を満たしていた力が、その消えた足下へと抜け落ちてゆく喪失感を覚えた。
アドルフ・K・ヴァイスマンを第一王権者《白銀の王》たらしめていた、力が。
伊佐那社という存在であった『彼』は、その最後の一滴が落ちきる寸前、目の前で悲嘆の表情を浮かべるクランズマン二人に約束した。
「大丈夫。僕は必ず帰ってくる」
なにが大丈夫なのかは、分からなかった。
「だって僕は、君たちの王様なんだから」
王としての力を、今まさに失いつつある。
しかし、自分はうっすら手繰っている、と、胸の奥に感じていた。
遠い昔に辿ったことのある、懐かしく心細く恋しい、一歩一歩を。
それを言葉にするなら、家路。
手繰って、歩いて、また――。

そして、再び目蓋を開けた『彼』は、
(閉所恐怖症じゃなくて良かった)
棺のようなカプセルの中で、くすりと笑った。

        *

かつて『彼』が緑のクラン《jungle》の追跡から隠れ潜むため使っていた地下室は、今なお書類の山々を連ねている。床は最低限の獣道を残して埋め尽くされ、机は限度を超えた荷重に緩く撓っていた。
新たに重なり始めた上層部分には、もはや《jungle》の文字はない。代わりに占められる文字の多くは《非時院》であり、稀に《セプター4》が、より稀に《吠舞羅》が混じっている。下層に多い走り書きは皆無で、いずれも書式の整った公式文書ばかりである。
「それで結局、折衝は無駄足だったの?」
山の頂からヒョッコリと顔を出して、『彼』は来客に声を掛けた。
戸口で跪く老齢の『ウサギ』は、頭を低くして報告を続ける。
「は。総辞職以降、派閥の領袖達も組閣どころか総裁選の候補にすら事欠く、右往左往の有り様にて……法案審議の根回しどころではない、と悲鳴を上げております」
「流石に数日で収まるような騒ぎじゃない、か……せっかく中尉が段取ってくれてた、異能者が力を失った時のための保護法案だけど、当分は塩漬けだね」
「初代《青の王》が草案を起こしてより六十余年、いざというときのために鍛え続けた備え刀です。焦らず時を計られるが宜しいかと。なにより本件は、誰もが当事者なのです。彼らも遠からず法案の意味に気付き、真剣に向き合うでしょう」
全人類に特異能力を発現させた『全世界同時超多発異能関連事件群』――面倒なので誰もが『一月の異能騒ぎ』と呼んでいる――から一週間。
世情は未だ定まるところを見せていないが、無数発生した異能者による暴虐の氾濫、という末世的な状景にも程遠かった。様々の思惑を持って事に及んだだろう首謀者一派……緑のクラン《jungle》にとって恐らく、極めて不本意なことに、全ては『これまでの日常の延長でしかない、未曾有の騒ぎ』の範疇に収まっている。
異能による事件はあくまで散発的、人々は手にした力をできるだけ使わずに様子を窺い、マスコミは事件を過去のものとして追及し、公的機関は大小の事後処理に追われる……かつてそうであった日常への復帰に誰もが勤しむ、という奇妙に演技がかった日々を、世界は今、懸命に消化している真っ最中だった。
やれやれ、とわざとらしく口にして、『彼』は書類の一山にもたれ掛かる。
「まあ『異能の暴発による毀損には刑事罰は問わない』って布告を先に出せただけでも良しとすべきかな。他の国がそれに倣ってくれたのも不幸中の幸いだったよ」
「御身が先年、この部屋にて立案された《緑のクラン》蜂起後の対処計画、という下地あればこその成果です。後事を託された御前も、泉下にてお喜びでしょう」
恭しく言う『ウサギ』に、僅か鈍らせた苦笑が返った。
「成果、か……単純に人は、人であることを愛していた、あるいはそれ以上・それ以外になることを恐れていた、というだけのことかもしれないよ。たとえ戦地に這っていても、貧窮に喘いでいてもね……あっ」
気付くや『彼』は、機敏に胸から手帳を取り出してメモを始める。
「このフレーズ、マスコミに流せば異能者への抑止力醸成の標語になるかも。いや、もっと希望的な言葉に言い換えた方がウケは良いかな」
と、そこに、
「……ところで《白銀の王》」
声色を改めた『ウサギ』が身を屈め、言う。
「ん?」
「本折衝にて、事後急務の用は、全て片付きましてございます」
「そう、なるね」
意図を察して、『彼』はゆっくり、書類の山へと顔を半分隠す。
果たして、
「そろそろ、お二方の許へ戻られては?」
避け得ない一つの進言が来た。
数秒の沈黙を経て、
「まだ石盤の継続研究に関する指針をまとめる作業とか、残ってるんだけど」
「それは、急務の用とは申せますまい」
問答が一つ、
「すっぱ抜かれた《jungle》パーティ参加者の保護を進めないと」
「既に《セプター4》が動いている由」
問答が二つ、
「えーっと、そう、稗田少年の経過観察とか身辺整理とか」
「本人了承の元、滞りなく行っております」
問答が三つ、
「と、《非時院》運営の、定例会議……」
「次回は来週にございます」
問答が四つで、言い逃れが途切れる。
「……」
「いい加減、お覚悟めされよ」
付き合いもそこそこ長くなった『ウサギ』は、言い聞かせるように促した。

        *

棺のようなカプセルに収められていたのは、第一王権者《白銀の王》アドルフ・K・ヴァイスマン本来の体だった。かつて第七王権者《無色の王》に乗っ取られ、その愉快犯的行動の巻き添えで墜死した……正確には、墜死寸前に《無色の王》が他の体へと乗り移ったことで残された、魂の抜け殻だった。
第二王権者《黄金の王》國常路大覚は、この遺体とも呼べない物を保存し、図らずも他者の体に入り込んでしまった友の復活に備えた。先の第三王権者《赤の王》周防尊によってその体を完全破壊された後、本来の体ではなく入り込んだ方の体で復活する、という回り道を経たものの、結局は元の鞘へと戻った。
他者の体に魂を固着させていた《白銀の王》の不変の力……その喪失によって。
カプセルから出た後も黄金のクラン《非時院》に留まり、事後処理を主導していたのは、必ずしも立ち向かうべき事柄からの逃避だけが理由ではない。
はずである。
日本の、さらには世界の、被害と混乱を最小限に食い止める対処方策に死に物狂いで取り組んだのは、自らが負った責任の上から当然のことだった。
はずである。
それらが今、ようやく一区切り。
なので当然、次の段階へと進むことになった。
誓った以上は逃げずに向き合い、踏み出すつもりである。
自分のクランズマン、あるいは友、さらには家族とも言える二人と、
彼らが見も知らぬ、アドルフ・K・ヴァイスマンという人間として、
初めて相対する姿を晒して、二度目となる再会を果たす。
しかし、誓ったところで恐いものは恐かった。
繋がりを試すことが、恐かった。

        *

思い立ったが何とやら。
あるいは老齢の『ウサギ』による容赦ない手配りの結果か。
地下室での遣り取りから僅か数時間後の昼下がり、正装した『彼』の眼前には、かつて伊佐那社として暮らしていた部屋の扉、という形の試練が立ちはだかっていた。
(……)
普段はそれほどでもない寮の廊下が、実に騒がしい。異能騒ぎから一週間、久々に授業が再開された当日ということもあるのだろうが、なにより『彼』がそこにいること自体が、騒ぎの原因となっていた。
(ま、そりゃそうか)
客観的に見れば、やたらと気安い外国人が突然、彼らの領域へと踏み込んできた、というシチュエーションである。これが注目を浴びないわけがない。
(少し前なら僕が、おおー、外人さんだー、とか言ってたのかな)
思いながら『彼』は、遠巻きに様子を伺う生徒らに手を振ってみせる。ぎごちなさを交えつつも手を振り返してくれる彼らが、少し小さく感じられた。
(僕って、結構背が高かったんだ)
目の前の見慣れた扉まで縮んだように思えてくる。そんな『以前と違う自分』を認識することで、またぞろ押し殺した緊張が高まってくる。扉に向き合い、深呼吸。
(大丈夫、大丈夫)
ご丁寧にも《非時院》は、今現在、二人が部屋にいることまで調べてくれた。
なので、扉を開ければ、再会は確実に果たされる。
(そう、大丈夫……今の姿は、記憶操作解除のときにネコが見てる、はず)
だから揃って、
「どちら様でしょう」
「だーれ?」
などと言われたりはしない、はず。
(大丈夫、の根拠は? クロは見てないし、ネコもあの一度きりだけだし)
理屈で希望を組み上げては理屈で不備を突いて崩す。そんな回りくどくも不毛な恐れの作業の中――ふと、理屈ではないなにかを、誰かの姿で、感じた。
(―― 「相変わらず寝坊助だな、貴様は」 ――)
それは、かつて伊佐那社として再生したとき、寝覚めに掛けられた、言葉。
七十年ぶりに顔を合わせた、老人となっていた友人が掛けてくれた、言葉。
あまりにも自然な、言葉だった。
互いの姿は、すっかり変わってしまっていた。
なのに、当たり前の気安さで、彼と話すことができた。
自分はこう答えていた。
(―― 「中尉は変わらないね」 ――)
そんなわけはなかった。
しかし、確かに、そう感じていた。
「……うん」
誰にともなく、頷いていた。
気付けば、体が動いていた。
呼び鈴を押すことすら、思いつかなかった。
ノブに手を掛け、扉を開けた。
靴を適当に脱ぎ散らかして、玄関を上がる。
台所を過ぎって、部屋に入る。
全くなんということもなく、声が出ていた。
「ただいまー」
二人は、ちゃぶ台を囲んで食事中だった。
そういえば、焼き魚の良い匂いがしている。
二人の、座ったまま目を丸くする様は、まさに恐れていた再会の姿。
が、それもすぐに、解けて消えた。
クロ――夜刀神狗朗は、眉根を寄せて苦笑する傍ら、ちゃぶ台に伏せてあった三つ目、空の茶碗をひっくり返した。そのついでのように、文句を言う。
「まったく、遅いぞ」
あまりにも自然な、文句を。
「ごめん」
いつもと同じ緩い微笑で返す、その首元に、ネコ――雨乃雅日が飛び付いてきた。誰と怯えることも、一切の躊躇もなく、力いっぱい体を擦り寄せる。
「おかえりー!」
そして、当たり前の気安さで、彼女は呼びかけた。
「シロ!!」
と。
シロ――第一王権者《白銀の王》アドルフ・K・ヴァイスマン、あるいは伊佐那社は、その髪を優しく撫でながら、大切な二人へと、心のまま答えた。
「ただいま」

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